20世紀の後半に発生したソ連の崩壊は、意外な結末だった気がする。共産主義の唱える、資本主義の中での階級対立として捉えた(国際)社会が、固定化されすぎてしまったということである。すなわち時代の変化に伴って資本主義が形態を変えてゆくのに伴い、資本家なる実態が、単なる資本に基づいた支配階級という固定化したものでなくなってしまったところが、共産主義者の見誤りの一番のキーポイントだった気がする。要するに、共産主義の基本概念が(経済原理だけに基づいたために)空洞化してしまったということである。それに引き換え、共産主義自身といえば、人間の本質が変わったのではなく、古来からの人間の性(さが)である理論よりも利に敏い人々を輩出したし、人民のためといいつつ、官僚機構は歴然として、権力をもって君臨した。これが、経済原理とは別のところで着実に変化し、人類の大きな流れである自由・平等への動きに逆行し、人々から見放されたということである。しかしこれは対立が解消されたということではなく、共産主義が指摘していた構造は、すでに実体がないものに変化していたということである。すなわち、動いている社会は時々刻々変化をしているということである。これからの社会もこのように、新しい動きが出てきては、旧来のものと突き合わせることにより、相互に切磋琢磨しつつ、かつ淘汰が行われる社会になるに違いない。
宗教界の大変化
ローマ法王ヨハネパウロ2世が今世紀に入り、ユダヤ教指導者との面会やイスラム教指導者と面会をしていて、いろいろ話をしていることが報道されている。私は、この目的を正確に把握しているわけではないけれど、イスラム指導者との話というのは、キリスト教(歴史的にはイスラム教)始まって以来のことであるというし、過去の十字軍のイスラム教徒迫害についての謝罪も行われたという。これは、キリスト教が開放系へと動き出したことを意味する。先ほどの共産主義が自分の教義(ドグマ)にとらわれるあまり、自己を滅ぼしたこととは対照的である。このことは、教団という主体の動きが「個」の集合体である認識と一致してきたことだと考える。私はこの動きを、高く評価したいと思うし、それだけキリスト教の持つ限界がはっきりしてきたということであると思う。(さらに入った情報では、ローマ法王はギリシャ正教とも、話し合いの場を持ち、ギリシャを訪問する予定であることが伝えられている)
スポーツ界の変化
野茂が米国の大リーグで黙々と実績を重ねているうちに、日本から佐々木や、イチローや新庄など続々と米国大リーグに押しかけてきて、すばらしい活躍をしているのを見るとスポーツ界も、国という枠を超えてきていることを実感する。しかし、日本人選手の活躍をニュースで知ると、同じ日本人ががんばっているということに感動を覚える。国境を超えた活躍というのは「観念」で捉えることができるが、「同じ日本人」という意識は、心情の世界という感じで解析できないけれど、素直に喜べるのは事実である。これらの考えは、スポーツ選手の活躍の場に目を注がせる役割を持ち、大きくは国際化が避けられないものである。今後もスポーツは国あるいは所属を代表した形で行われるとは思うけれども、究極は「素晴らしいプレー」にポイントが移るのではないだろうか。すなわち、個々の選手のプレーこそ、人々が感動する中心になってゆくだろう。
このような時代の流れを考えながらものを見てゆくと、自分の身の回りのことがすべて時代の変化の反映であることがわかる。そして、その中でも重要なものが、情報であり、開放データの必要性であることが言えるであろう。すべては、個の判断から大きな動きへとつながってゆくことを、誰も止められないことを歴史が証明していると思うからである。
Technorati Tags:
このブログ内をタグ検索:
Comments:0
Trackback:0
- TrackBack URL for this entry
- http://www.imanetinc.com/mt/mt-tb.cgi/270
- Listed below are links to weblogs that reference
- 【復刻】 123 過去を捨て去ることの必要性と難しさ その 2 20001007 from シリコンバレー20世紀