理解することと信じることの間には、大きな壁がある。あえて、どちらが先かと言うと、私は信じることのほうが理解を超えていると思う。理由は、私はPCを使うことに抵抗がない。自分では正しく作られていると検証できなくても、正しいと信じているからである。そう言えば、時々不正な処理が行われました。製造元に問い合わせてくださいとかいう、メッセージが出てくる。MS Officeを使っているときに、これが出てくると、またビルゲーツの手抜きだと思いつつも使ってしまうし、ビジネスでの利用で問題になるとは思ってもいない。このあたりは実に心もとないが、私がPCを信じている現状である。これは、技術的な点からであるから、出来事は比較的ビジネスライクで済ませることができる。信じるという、別の側面についてはどうであろうか。有名な話ではダーウィンの進化論を信じない人々が米国にはまだまだ、たくさんいると言う。車の後ろにそのシンボルマークつけている人もいる。今回はこのような点に見られる、理解というものと信じるということが、時として離れてしまうのはどうしてか考えてみたい。
理解はロジックからと感覚によるものがある
理解すると言うことは、言語によって行われる場合と、ある種の感覚によって行われる場合がある。通常は言語によるロジックをもって、理解する場合が多い。しかし、西郷隆盛と勝海舟の江戸城明け渡しのときのように、言葉でなく相手を理解することも可能である。ロジックによるものの最たるものが、科学でありこれは、仮説をおいてその仮説の検証をロジカルに行う。だから、相手に言葉とか記号を使って説明し相手もその論理を受け入れれば、理解しますし、受け入れられないときには、仮説かロジックに対して、理解できない点を持つことになる。それとは別に、ある種の感覚からくる理解は、ロジカルではないが実際の生活では意外としばしば使われているような気がする。先ほどの西郷隆盛と勝海舟との理解は、ロジカルな説明でできるものではない。腑に落ちる、とか腹が判るとか言うのは、ロジックでなく相手の動機とか、想いとかを憶測して理解するときに使われる言葉である。これは、自分が相手と向き合ったときに、言葉に出すことを超えた理解の仕方である。このことが、言葉を使ったロジカルな面と違った理解の仕方をさせる。
契約社会には言葉が必須
契約社会は、相互の理解を言葉でまとめ上げたもので成り立つ。ここには、言葉以外の要因は入り込む余地はない。ロジカルで組み立て、ロジカルで理解すると言うのがルールである。これは確かに、コンピュータが入り込んで、人間の能力をはるかに超えた処理能力で対応している。それで組織化される社会が、今まで続いてきている。あるいは言い方を変えると、コンピュータの処理で対応できる部分はどんどん、コンピュータに取り込まれてきてる。しかし、ビジネスの分野だけでなく、人と人とが介在する部分にはコンピュータの介在できるところは必ずしも多くはない。たとえば、契約をするかどうかの判断、自分の進みたい大学の選択など、ロジックだけでは済まされないのは多くの人が経験することである。そうすると、契約社会と言うのは、現実の世界のある限られた範囲であることがわかる。
ロジックを超えたもの
現代の社会は一見するとロジックですべて縛られているように見えるけれど、一歩踏み込むとロジックを越えたものを人間が持っている事がわかる。これは、ロジックにはならない感覚である。この感覚は、自己の生存をかけるくらいの重要な決断において、その力を発揮する。そして、それは理解であったり、納得であったりする。この要素は、自分と言う生命体自らの活性化を図る仕組みのように思えてならない。自分の経験では、快・不快とか、好き・嫌いのように本来の自己以外には理解されない条件が選択されることが多いからである。これは、ロジックでもないし、他人が理解できるほど、普遍性のあるものではない。
個があることは、ロジックを超える
個として存在することを認めるのは、個性を認めることである。それが相互に理解できると言うことは、実はかなりむずかしいことが判る。これは、人間がロジカルで無い面を多く持つからであり、それは雰囲気とか人物に相当するものではないかと考える。私の推定では、どの時代においても、人間を考えるとか、人物を鍛えるということが、とても重要だったと思う。なぜなら、ロジックが大手を振って歩くのは、過去300年くらいの話だと思うからである。現在の日本の状況では、人物と言う評価をするケースが少なく、大学進学などでも、偏差値や点数の評価を中心に考えると言う。これは、人物を育てる上では、とてもまずいやり方である。シリコンバレーは、すべての個性を受け入れるところにその活性化の原点を持つ。それが、主体的な個人を生み出し、社会に活力を与えているのは紛れも無い事実である。ロジックを超えたところにある人間と言う捕らえ方が、今ほど重要なときはないと痛感する。
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