江戸時代が、人口と生産のバランスの取れた時代で、すでに江戸は、100万都市であったと言う事を確認しました。当時の大名が奨励した、地域産業の振興、田畑の開墾、不作の時は倹約の率先垂範など、今からでも学べる事は沢山あります。(上杉鷹山がビジネス書に出てくるのはその一例です)これは、経済バランスから言うと入るに合わせて出を制すという、バランス管理の問題です。これは、財政管理技術としての面と、産業開発やライフスタイルなどを含めた大名の藩内の政治理念になっていました。結果的には、財を強くしたところが生き残る構図となったわけで、やはり、先立つものは重要な役割を持っています。
鎖国の中の、外国情報
オランダの学問は、長崎のオランダ商館から手に入れる事は可能でした。しかし、そこでも幕府の監視がきつく、欧州で起こったナポレオン革命などの情報が流れてきたのは、1813年頃の事だそうです。しかし、そのような時代であったにもかかわらず、国内の知識人の外国の情報の欲求と、諸外国が、日本への貿易開国の要求など、日本の周辺海域はどんどん賑やかになってきました。しかし、正式な開港は1854年の和親条約が初めてですから、それまでにも、知識人にとって、本当の情報を知る欲求は強烈なものであったと思われます。その年に、吉田松陰が、下田の米艦に入り込み、「自分を米国に連れていってくれ、世界を是非見てみたい」と言ったのですが、残念ながら受け入れられず、幕府に捕まってしまうわけです。
吉田松陰は、なぜ人を育てられたか
吉田松陰は、幕府に捕まり浦賀から、郷里へと囚人籠で送り帰される事になりました。ここから先は、小室直樹氏の著作の内容をお借りするのですが、その籠を担ぐ役人に吉田松陰は、人としていきる道を全うする事が大切だとか、人それぞれの伸びるところを伸ばせば多いに人が成長する事などを延々と語り掛け、最後にその護送役人をして、大変立派な方にお供させていただきました、とまで言わしめたそうです。そして、郷里に戻ってからは、松下村塾で、あるいは土牢のなかで、孟子を講じて学問を奨め、そして、牢屋の中を学問の場に変えたという、とてつもない事をやりとげ、1859年の安政の大獄で獄死するわけです。
松陰の考え方
松陰の思想には、明代の李贄(りし)(1527-1602)の影響が大きいそうです。これは、真心を最重要視して、偽善を憎み、官僚制の欺瞞を大いに嫌ったとあります。59歳で思索に入り、官僚からの弾圧を受けながら76歳で投獄され、獄中で自殺をします。松陰はその李贄に傾倒していたと言います。そのような思想背景で、真心を尊び、偽善を認めないという考え方が、幕府への思想的対峙になったと理解できます。
なぜ、弟子から人材が多数輩出したのか
松下村塾から輩出した人材は、ご承知の通り久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山形有朋らの尊攘思想の持ち主が幕末から明治の時代を大きく変えていったわけです。松陰がこれらの人々の教育をした時の特色は、まず一人一人の個性を見て、次に、その良いところを誉める、という事ではないかと思います。さらに、その良いところについては、その人がリーダーになって、他の人に教えると言う事を、実践した事だと思います。私は、ここには「個」という意識を持った教育者が、「個性」を育てる教育をしたという、素晴らしい実績があると思います。江戸の時代には、まだまだ「個」が生きていて、それぞれを常に見る目があったように思うのです。
個を見ない現代
これは、余談になりますが、マスコミの使う言葉に「最近の高校生は」とか「最近の中高年は」という表現があります。これは、実際は「個を無視した」表現で、こんなまとまりで説明できる集団など存在するわけがありません。これは、現在の我々がサボってきた考え方で、結論を大きく誤らせる可能性すらあります。少なくとも、民主主義社会を標榜する国であれば、個の認識は最低限の視点だと思います。先ほどの表現が、結局のところ、あいつらという架空の集団に比べて、自分の身を相対的に良く見るだけの結論に終わってしまっているのは、幕末の素晴らしい先輩方を持つ我々としては、やや不勉強のそしりを逃れないものと思います。 (つづく)
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