前回は、江戸時代に入る前までの考察をしました。日本人は海洋民族として、倭寇となり東シナ海や、黄海を暴れまわった実績があるところまでを確認しました。今回は、江戸時代の鎖国の周辺と、鎖国の持つ意味を考えてみたいと思います。家康はアジアの国々のほかオランダやメキシコそしてイギリスと通商条約を結んで、貿易を始めています。三代将軍家光の時代に鎖国が行われます。この間、西洋では宗教から科学へと自然科学が芽生えて行ったのに対し日本では、国の中での思想や、芸術そして技術が伸びて行きました。これは、善悪ではなく明らかに文明の進み方の典型なのだと思います。鎖国は歴史年表によると1639-1854まで続いた事になっています。では、この時の日本の社会は、どのような状況だったのか、推定してみたいと思います。
寺子屋という地域教育システム
この鎖国の時代でも、日本では教育が盛んでした。そのひとつの例が寺子屋です。有名な塾などもこの鎖国の前後から設立されています。多くは庶民の子弟の教育に使われたようで、教える内容は読み書きそろばんが中心で、教科書としては往来物と呼ばれる、いろいろな場面での往復書簡を中心に教えられたそうです。もちろん地域での寺院などが教える場となり、僧侶や書家、神官、浪人などが教えたとあります。以前、岡山県にある閑谷学校という藩校に行ったことがあります。1668年に完成した大きな講堂を持つ建物ですが、国宝となった今でも、教育訓練の場に使われています。建物の作りや、大きさを見て藩主の並々ならぬ決意を感じる事ができました。
人を見て指導した時代
寺子屋では、ある程度勉強が進むと、その子供が後からくる子供達を教える役割を担いました。これらは、先生が一人一人を見ながらする教育だからできたところもあります。そして、優れた子供には、更に上に進む仕組みもあったようです。(吉田松陰は6歳で藩の師範として、藩主に山鹿軍学を講義したとあります)今から見ると、とんでもない事のように見えますが、当時は優れた人にはそれなりの扱いがされていた事がわかります。それは、藩というひとつのまとまりの中で、藩主の器量によって決められたものだと思います。そして、この寺子屋は幕末まで増えつづけたのであります。ルソーがエミールを書いたのが1760年頃ですから、当時の日本の教育システムというのは個に対する見方がかなりきちんとできていたのではないかと思います。(西洋の大学の歴史は古いのですが、ここでは実学をあまりやっていなかったので、寺子屋とは比較しませんでした)
世界への目
この鎖国に時代には、世界への目は確かにふさがれていましたが、入ってくる学問には貪欲な人達が多くいました。蘭学と呼ばれるオランダからの学問は、鎖国の間でも比較的規制が少なく、蘭学者たちは少ない原書を、書き写しながら勉強しその学問を広げて行ったのでした。
そして、蝦夷や樺太などの日本の周辺の探検や、伊能忠敬のよる日本地図が作り始められたのは18世紀の後半からです。そして、世界の国々が日本との開国を求めてくる時には、それらの情報が人々に知られるようになるわけです。ここで着目したいのは、伊能忠敬や間宮林蔵のような人々は、実に実直に測量を行ったという事です。ひたむきということが、偉大さへのひとつの道である事がわかります。
大都市江戸、エコ国家日本
これは手元に資料が無いのですが、江戸時代江戸の人口は100万人を超え、世界一の都市だったと言います。また、当時の日本の全人口は3000万人で、江戸期を通じて余り変化が無かったということです。(記憶に頼っているので、あまり自信は無いのですが)もし、そうだとすると、江戸時代には、藩という地域分権制度を取り入れる事によって、バランスのとりやすい社会を構成していたのかもしれません。現在大都市への集中が、バランスを失った社会構成を作り上げてしまったことと比べてみると、これからの自然や環境のバランスを保つ上での、ひとつの大きなヒントになるのではないかと思います。日本独自の芸術なども、この時代に生まれたものが多く、バランスをとりながらも、豊かに暮らした先人達という感じを強く持ちました。 (つづく)
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