前回は、聖徳太子の時代の、和というところに一つの特徴があることを考察しました。蛇足になりますが、Be OSを開発したGasse氏は、日本のことも詳しいフランス人ですが、「和」では仕事は進まないといって日本の仕事のやり方が、すでに遅れてしまったことを暗に指摘していました。それでは聖徳太子以降の日本の文化はどのように進んで来て、今の日本人に影響を与えたのでしょうか。当時の庶民の考え方は、明確に記録に残っていませんが、残された歴史の跡から推察してみたいと思います。
奈良時代は、国の思想中心
奈良時代が仏教思想での政治に移行し、国の事業として東大寺の建立が行われたりしました。聖武天皇は国の平和と国民の安寧を願って立てられたとおあります。当然のことですがそのような仏様に守ってもらうのが、国を平和にする上で一番重要なことと考えられてきたわけです。私は、その事のやり方は別として、為政者が「自分より優れたものにお願いする」という姿勢を見せているところが、現代の日本と比べると、大きな違いであると思います。
平安は仏教思想のるつぼ
平安時代には、仏教が実に幅広く伝来しそして、各々流派として成長して行きました。あるものは密教となりその論理をどんどん追求して行く形を取りました。しかし、まだ民衆が取りいれるというものは出て来ていない状況でした。そして、藤原氏の全盛へと向かうのです。これが今から焼く1000年前の話でして、歴史年表で見る限り、前の千年紀突入の時には、大異変は起こっていないように見えます。そして、あの藤原道長も西方の極楽浄土に行けるよう、死の床では阿弥陀仏に色糸を掛けて往生したということです。権勢というものと個人の意識とで、やはり外に偉大なものがあることを素直に受け入れていたことがうかがわれます。
いざ、鎌倉は
鎌倉に入ると、多分農民から武士への頻度が増えて、戦の場での死や個人の死生観が出てきたためだと思うのですが、仏教が個人を相手にし始めます。その一人が日蓮であり、彼の法華経への信仰は個人としての覚醒となって、あの生涯の強い意志での伝道へとつながったわけです。
私は無宗教なのですが、法華経を(口語訳で)読んだ時にすごく感動しました。一つは、教義を羅列したものではなかったこと。もう一つは、あたかもファンタジーのごとく、一人一人の人間が悟りを開いて行くところを描いているのです。その時に、私なりには、一人一人が神であるといわれた内容を確信することが出来ました。
もう一人はここでは親鸞でしょう。彼は妻帯して伝道するという、従来とは異なるアプローチでしかも、念仏に精進するということで、多くの個人に信仰の一つの姿を与えたと思います。特に、私が以前聞いた話では、妙好人という人達は、あらゆる事に感謝しながら生きることで、その浄土信仰を実践しているそうです。何やら、お客様のお望みのままにするのが、私どものサービスですといい始めた、ホテルや、デパートなどのサービス精神の元祖のような気がします。この風潮は、米国も日本も同じで、お客にありがとうすら言えないサービス業は、凋落の一途をたどっています。また、別な話になりますが、最近、ユダヤ教のラビ(司祭)は妻帯者でないと勤められないという話を聞きました。それは、人生のことが解らない人は、信仰についても指導できないからだ、ということだそうです。なかなか面白い智慧だと思いました。世界にはいろいろな考えがある事が分かります。
このように見て行くと、人間の思考の中には、文字通り多種多様のものがある事が分かります。しかしその根底の思想は、割と古くから真や善や美を求める作業の中ですでに知られていたような気がします。その意味で、歴史を振り返り、洋の東西の思想を見詰め直す作業は重要だと思います。これからの時代、その流れをつかみながら見据えてゆきたいと思います。(つづく)
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