世界経済と日本の状況を比べて感じるのですが、日本的なものがすでに世界の各所で取り入れられて来ているということではないかと思います。新しいところから見ると、カンバン方式というのはすでに国際標準の製造工程の物流方式になってしまった感がありますし、企業内集団活動なども米国の企業では、Teamworkという言葉で従業員への教育が進められています。またその反対に経営手法など何時の間にか、国際会計基準がグローバルスタンダードになるという事で日本の企業会計もその中に繰り入れられようとしています。これらを比べる中で、日本(人)の古くからの個性や、創造性というものを見直してみたいと思います。
縄文文化と弥生文化
私の手元には吉川弘文館の世界史年表があるのですが、日本の縄文時代と弥生時代の記述はほとんどありません。最近発見されている三内丸山遺跡などは、紀元前45世紀という古いもので、エーゲ海文明が始まるより1000年以上古いものだそうです。(平凡社マイペディア98による)そのような早期の文明なのですが、次に続く弥生時代とのつながりが、私には未だ良く解りません。縄文とは異なった文明であるというところまではいいのですが、それでは一体この国の中に何が起こって、新しい文明に置き換わっていったのか、その筋書きがはっきりしないのです。
邪馬台国から古墳時代へ
そして、弥生時代の終り頃、邪馬台国の卑弥呼が現れてきます。このあと古墳文化へと移って行きますが、これも邪馬台国と古墳文化のつながりが非常に見えにくく、どうやら関係ないとしか結論が出せない状況にあると思います。おのおの独立した文化が入れ替わり立ち代わり栄えていったというのが、本当の姿かも知れません。ここは、考証学的にも議論の多いところですから、私の理解は、多くの文化が混在したのが日本の歴史の根底にあるということでとどめたいと思います。古墳時代の後期には、飛鳥時代そして大和朝廷へとつながって行きます。
聖徳太子の出現
飛鳥時代の人物で日本の文化に大きな影響を与えた人はやはり聖徳太子だと思います。
彼は幼い時から聡明で伝説的な逸話があります。その一つが同時に7人の人の言うことを別々に聞き分けたというのがあります。これなど、日本人の一つの価値観で、あらゆる事に広く聞く耳を持つことが大切だという価値観に相当していると思います。一方、西洋は個人の主張が激しく、個々の話し合いこそ、重要なことであるとされ、ギリシャ時代にはプラトンやソクラテスの対話や、ローマ時代の公民権の普及など「個」の主張や権利をどのように生かしてゆくかを重要視しています。言い換えると、日本はいかに個々をまとめるかというところに重要性が置かれているのに対し、西洋はいかに個々を主張するかが出ているように思うわけです。
和を以って尊しとなす
聖徳太子の17条の憲法は、和を以って尊しとなすという有名な言葉が入っています。これは先ほどの、多くの人の声を一度に聞いてしまうという作業と良く似ているように思います。それは、個々人としてではなく意見を聞いて、それに答えるという要素があるからです。そして、それらの意見を一つ一つを説得し、それに納得して和を保つということを理想としたわけです。
西洋のように、個性を尊重すると個々を生かすことはそれぞれの意見を生かすことになります。それらが一つにまとまれば良いのですが、まとまらない時にはやむなく数で決する方法を取らざるを得ないということになます。多数決の根底は、このような個性を生かすことだと思います。これは聞いた話ですが、ユダヤ人の社会では全員一致の場合は、それを採択しないというルールがあるそうです。その心は、そのような結論は、検討が十分行われていない証拠だからというのがその理由だそうです。
一つの結論に至る過程でも、日本と西洋で(あえて言えば日本以外ですが)異なっていることが判ります。これらを再認識することは、日本(人)の思考における好みや癖を知る上で重要なことだと思います。理由は、西洋は自分達の文化以外のものから、多く学び始めており、それによって成果を上げているものが出て来ているからです。
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